#metooと、日本の独自文化となったミートゥー運動を同じ土俵で話すのは文化的におかしいのではという気持ち

燃えないように気をつけながら書きますが、まぁ、気にしなくても燃えないでしょう。

 論点はそこ自体じゃないので、そこで突っかかってくる人が出たらその人は少し国語とかを勉強したほうがいい。


海外における#metoo運動は、セクハラされた人たちが、した相手や、司法に対しての抗議活動が恐らく主でしょう。

その結果としてその取り上げられた事件そのものには関係のない人達や、日常的な話として無意識的加害者、被害者になりがちな人達がオフィシャル的に気を使ったり、ノーと言えるようなルールを整備していくことが主なのだろうと思う。

つまるところ、それは、感情が起点ではあっても、ルールの方の制定が主な戦場ではあるので、それは、なんというかデモや行動としてはまだ合理的であると僕は感じる。

とはいえ、それぞれの感じ方の違いをどう同じ尺度にねじ込むのかは僕には想像できませんけども…。


で、日本のミートゥー運動に関しての言説。

 こちらは、根本的にミートゥーの指す対象が違う気がしておりますな。

海外におけるmetooは、「私もそうされた」という実被害の話で声を上げているのに対し、日本のミートゥー運動は、指している対象がまったくちがう。

セクハラを受けたこと自体は正直言ってどうでも良く、セクハラされ人が可愛そうだ、加害者は殺そうみたいな、仮想敵を同じにするという意味でのミートゥーであって、私も同じ境遇ですっていう人のミートゥーは割と声が小さい。

なんなら、場合によっては、よりニュース性の高いもの、例えば口で言われるよりも、明らかな暴行が絡む、一般人よりは芸能人の話として取り上げられるのがとても国民性が出ているなと。

日本人が各人の意思を強く出すよりも、空気読んだり、周りに同調することと、キャラクターというか、シンボリックなものにばかり目が行くというのは、国内外問わず皮肉にされているのは本当なんだなと言う感想が強かったですね、この騒動は。


勿論、客観的に見てセクハラは悪いことだし、声を上げることに対しては僕は全然今後増やしていくべきだと思っています。

(それは、社会実験としてどこまで人間が禁欲的、もしくは一人一人が隔離された関係性にまで突き詰めていけるかが見たいというのもありますが)

ただ、これだけ個人の思想の自由が叫ばれている時代、セクハラを悪いことだと思わないイコール世間の敵というのは多様性とはかけ離れているのではないかとも思ってしまうわけです。

なんなら、それはセクハラに限らず、連続殺人犯を擁護する奴がいても、善行を積む人間に深い恨みを持ったって良い、ネコが好きって言葉の意味が、可愛いだろうと、美味しいだろうと、なるほどなと相手の意見を飲む。それが本当の意味での多様性なんじゃないかと思うわけです。  

勿論、実行動として、法に触れるような事をしているものは、多様性とは呼べないでしょうが、数の暴力でそれぞれの思想まで否定するような世の中、正直言ってセクハラよりも、児童虐待が多いとかよりも、よほど問題だと思います。