LGBT関連の社会運動に対して思うこと

前のに引き続きジェンダーな話ですが、まぁネットでよく見る話題なので…

 

LGBT、その他諸々をみんな許容してくれ、みたいな運動について思ってることです。

主なところは、前回のミートゥー同様に、それそのものと、その名前を関した運動に関してのズレの話です。

 

なんかいつの間にか種類が増えすぎて細かいものはよくわかってないのですが、いわゆるLGBTがおそらく代表格になってる性的マイノリティな方々が、生きづらい世の中らしく、それは大変でしょうなと思います。

実際、自分が何好きなのかって話だけでそんなに周りから排他されるの、だいぶ自由主義からかけ離れている気がするので、普通によろしくないことだと思います。早くみんなで改善していってください。

 

っていうところまでは、良いのですが。

その手の運動にありがちな、被害者意識から要求が不当にデカくなる問題が発生している気がします。

今回の話題で言うのであれば、

性的マイノリティを理性を持って叩く、排他する等々については、いわれのないことで吊し上げ食らってるようなものなので、明らかに間違っています。是非とも社会の方を叩き直していって欲しいです。

が、性的マイノリティを公言され、それを聞いた側がどう感じるかまでコントロールしようとするのは、あまりにも傲慢じゃないかと思います。

性的マイノリティを打ち明けられて、恐怖する人だっているでしょう。

しかし、それは別に差別的な話で言っているのではなく、単純に感覚的な話であり、そこに社会的な意識はありません。

ただ、一人の人間が対等に、一人の人間に対して抱いた感情を否定して良いものなのか、よく考えてほしい。

 

人間、一度でも被差別側に立つと、謎の被害者最強意識が芽生えますが、その感覚を持ったまま他人に接触すると、一歩間違えば自分が差別する側、加害者側になることを理解していってほしいですね。

 

そんなところで行きますと、グレイテストショーマンのバーナムなんかはかなりその手の被差別意識によって人生を方向付けられている気がします。

大体あの手の話も、結局周りとかに対して見返そう見返そうってするの間違いだったなみたいになるでしょオチとかで、そういうことだと思いますよ。

あまり、被差別意識をこじらせて増長したり、攻撃的にならずに、誠実に生きていくのが「より良く生きる」ってことだと思います。

 

#metooと、日本の独自文化となったミートゥー運動を同じ土俵で話すのは文化的におかしいのではという気持ち

燃えないように気をつけながら書きますが、まぁ、気にしなくても燃えないでしょう。

 論点はそこ自体じゃないので、そこで突っかかってくる人が出たらその人は少し国語とかを勉強したほうがいい。


海外における#metoo運動は、セクハラされた人たちが、した相手や、司法に対しての抗議活動が恐らく主でしょう。

その結果としてその取り上げられた事件そのものには関係のない人達や、日常的な話として無意識的加害者、被害者になりがちな人達がオフィシャル的に気を使ったり、ノーと言えるようなルールを整備していくことが主なのだろうと思う。

つまるところ、それは、感情が起点ではあっても、ルールの方の制定が主な戦場ではあるので、それは、なんというかデモや行動としてはまだ合理的であると僕は感じる。

とはいえ、それぞれの感じ方の違いをどう同じ尺度にねじ込むのかは僕には想像できませんけども…。


で、日本のミートゥー運動に関しての言説。

 こちらは、根本的にミートゥーの指す対象が違う気がしておりますな。

海外におけるmetooは、「私もそうされた」という実被害の話で声を上げているのに対し、日本のミートゥー運動は、指している対象がまったくちがう。

セクハラを受けたこと自体は正直言ってどうでも良く、セクハラされ人が可愛そうだ、加害者は殺そうみたいな、仮想敵を同じにするという意味でのミートゥーであって、私も同じ境遇ですっていう人のミートゥーは割と声が小さい。

なんなら、場合によっては、よりニュース性の高いもの、例えば口で言われるよりも、明らかな暴行が絡む、一般人よりは芸能人の話として取り上げられるのがとても国民性が出ているなと。

日本人が各人の意思を強く出すよりも、空気読んだり、周りに同調することと、キャラクターというか、シンボリックなものにばかり目が行くというのは、国内外問わず皮肉にされているのは本当なんだなと言う感想が強かったですね、この騒動は。


勿論、客観的に見てセクハラは悪いことだし、声を上げることに対しては僕は全然今後増やしていくべきだと思っています。

(それは、社会実験としてどこまで人間が禁欲的、もしくは一人一人が隔離された関係性にまで突き詰めていけるかが見たいというのもありますが)

ただ、これだけ個人の思想の自由が叫ばれている時代、セクハラを悪いことだと思わないイコール世間の敵というのは多様性とはかけ離れているのではないかとも思ってしまうわけです。

なんなら、それはセクハラに限らず、連続殺人犯を擁護する奴がいても、善行を積む人間に深い恨みを持ったって良い、ネコが好きって言葉の意味が、可愛いだろうと、美味しいだろうと、なるほどなと相手の意見を飲む。それが本当の意味での多様性なんじゃないかと思うわけです。  

勿論、実行動として、法に触れるような事をしているものは、多様性とは呼べないでしょうが、数の暴力でそれぞれの思想まで否定するような世の中、正直言ってセクハラよりも、児童虐待が多いとかよりも、よほど問題だと思います。



昼顔の劇場版がスカッとジャパンみたいな感じだった

斎藤工の声が好きなんだけどあんまり喋ってくれなくて、そこが一番つまらなかったですね。

忍者の時くらい喋ってくれ。

壁も走ってくれ。


昼顔、話面白いのとか、良い出来なのみたいな話は他の方々が沢山書いているだろうから個人的に思ったことを書きます。


皆さんご存知の通り、劇場版のクライマックスで斎藤工が死亡し、上戸彩がシンママになり小さな町でピンサロ嬢として頑張っていくというエンディングなワケですが、ネットの正義に近いものを感じませんか。

hagex氏の死にネタに便乗しているわけではないですが、世の中正義のために一瞬悪になることを許容する風潮になってきたのでわりとその感じがある気がしました。


劇中の登場人物的には、不倫してる側は悪い夫や妻からパートナーをひき離して幸せにしてあげてる訳だし、私刑で裁く妻や夫のキャラクターからすれば倫理が味方をするわけですが、双方歪んだ正義に基づいて動いているので、視聴者としてはヤクザとヤンキーが揉めてる位のプロレスでしかないので、双方不幸になるのが一番のエンタメだったりするわけです。

で、まぁ、その人間競馬で言うところの押せ押せ言ってる人達に近い立場で正義を振りかざす人たちがいますよね。

はい、ツイッターの人権マン達です。

表面上、客観的正義といったケチをつけられづらい立場を取りながら、ビランとダークヒーローを同時に討ち取る民衆みたいな構図。

だれも責任を取らないで済むので、多数でひとりふたりを殺すのにとてもコスパがいいですよね。


絞首刑の時のボタンだってもう少し数少ないでしょ。

恐らくですが、この「みんなで殺せば悪じゃない」ムーブメント。

正義の美酒に酔いしれて、ネットバトルがリアルバトルに発展する数が増え、もう少し論者達がリアルに死なない限りは改善されることは無いだろうなと思っております。

消えたい、死にたいという感情に理由を求めないでほしい話

いきなりひどい話で恐縮です。


死にたいだとか、消えたいという話をすると、辛いの?とか鬱なの?といった疑問を投げかけられることが多いのですが、根本的な話として、それらしい理由を求められると困りませんか皆さん。

恋人のことなんで好きなのって言われても答えられないけど大好きみたいな人居るでしょ。

それと一緒で、ただただ単順に自分で自分の存在が本当に世の中にとって害悪でしかないという自覚がある人間がいるんですよ。

それは、例えば僕とかですが。

とはいえ、生まれ落ちたものは仕方ないし、誰かに対して強い恨みなどがあるわけでもないので、なおのこと申し訳ないなぁという気持ちだけが膨らみ、仕事にしろプライベートにしろ、なるべく人の役に立とう、生きているということ以上の迷惑をかけないようにしようという気持ちで日々を頑張っております。

こんな人社会における癌みたいな人間でも、生まれさせてくれて、邪魔でも生きさせてくれてありがとう親、会社、社会。




ブログ、初めては辞め、新しいのを立ち上げてはツイッターに熱心になってネタ切れ起こしとまともに続いたことがないので、今回もあまり続かない気もしますががんばります。

今回始めた理由は死にたい話をしてたらツイッター凍結されたからです。